光海君は1575年に14代王・宣祖(ソンジョ)の二男として生まれた。彼は王として即位しながら、死ぬときは罪人として流刑地で命を終えた。この落差は、一体どこから生まれたのだろうか。
兄弟で功績に差が出た
「こんなはずではなかった。なぜだ?」
光海君は何度もそう自問したことだろう。
彼の人生が意図したものとは違う方向に行ってしまったことは確かだ。
果たして、その人生とは?
若いときの光海君から見てみよう。
1592年に朝鮮出兵が起こった。朝鮮王朝が豊臣軍に攻められたとき、光海君は武勲をあげている。
一方、兄の臨海君(イメグン)は加藤清正軍の捕虜になるという屈辱を受けた。同じ兄弟でも、功績という面では雲泥の違いがあった。
王の後継者問題で臨海君より光海君のほうが有利になった。
「臨海君は素行が乱暴。光海君のほうが優秀だ」
そういう評価を受けて、光海君が世子(セジャ/次代の王)に指名された。
すかさず、臨海君が巻き返しに出た。
さらに、宣祖の二番目の正室・仁穆(インモク)王后が1606年に永昌大君(ヨンチャンデグン)を産み、次の王をめぐる争いが激しくなった。(ページ2に続く)