中宗(チュンジョン)の息子の仁宗(インジョン)は孝行息子の鑑!

 

1506年に即位した中宗(チュンジョン)は端敬(タンギョン)王后を7日間で廃妃(ペビ)にせざるをえなかったが、次に迎えた正室が章敬(チャンギョン)王后だった。彼女が産んだ中宗の長男が仁宗(インジョン)であった。




無慈悲な継母

中宗の治世は38年に及んだ。
歴代の27人の王の中で5番目に長い在位だった。
しかし、晩年は病気がちで床にふせっているときが多かった。そんな中宗を献身的に看病したのが長男であった世子(セジャ/王の正式な後継者)だった。
彼は中宗の二番目の正室だった章敬王后が1515年に産んだ王子である。その章敬王后が出産後すぐに亡くなったために、世子は生母の愛を知らないまま育った。
この世子を陥れようとしていたのが文定(ムンジョン)王后だった。彼女は中宗の三番目の正室だが、1534年に王子の慶源大君(キョンウォンデグン)を産んでいて、その我が子を王位に就けようと画策して何度も世子の命を狙った。
手口は過激になるばかりで、放火によって世子の夫婦を焼死させようとしたこともあった。まさに、文定王后は冷酷で無慈悲な継母だった。




それでも、世子は文定王后を母として敬った。それが息子の当然の務めだと信じて疑わなかった。
それほど親孝行だっただけに、中宗の病状が悪化するにつれて世子は痛々しいほどに嘆き悲しんだ。
(ページ2に続く)

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