端敬(タンギョン)王后は11代王・中宗(チュンジョン)の最初の正室だった女性である。二人の夫婦仲はとても良かった。それなのに、中宗が即位してすぐに二人は別れなければならなかった。というより、中宗は端敬王后を離縁せざるをえなかった。それは、なぜなのか。
端敬王后の親族
話は1506年のことだ。
この年に、暴君として悪評がひどかった燕山君(ヨンサングン)が、クーデターで王宮を追放された。
廃位となった燕山君に代わって王になったのが異母弟の中宗だった。それにともなって、中宗の最愛の妻は、端敬王后として朝鮮王朝の「国母」となった。
しかし、王妃の座にあったのは、わずか7日間だった。
なぜ、それほど短かったのか。
実は、クーデターを成功させた高官たちは、中宗に仰天な要求を突きつけてきた。
「中宮(チュングン/王妃のこと)と離縁してください」
とんでもない要求だ。
もちろん、中宗はきっぱり断れば良かった。絶対権力者の国王なのだから……。
しかし、彼にはできない事情があった。
何よりも、高官たちが執拗に離縁を迫ったのには理由があった。
端敬王后の父親が燕山君の一番の側近だったのだ。さらに、燕山君の妻は端敬王后の叔母だった。
このように、端敬王后の親族には燕山君と深い関係の人が多かった。
中宗の悲しみ
高官たちは、燕山君一派の残党たちが端敬王后をかついで復讐をしかけてくることを極度に警戒した。
つまり、端敬王后が王妃の座にいると困るのだ。
当初は拒絶していた中宗だったが、それも長続きしなかった。
彼はクーデターを成功させた高官たちに、からっきし頭が上がらなかった。
ついに、中宗は高官たちの要求を呑まざるをえなくなってしまった。
それほど、中宗は初志貫徹ができない王であった。
端敬王后が王宮を去ったあと、中宗は悲しみにくれて、王宮の高い場所にひんぱんに上がっていった。
それは、端敬王后が住むあたりをながめるためだった。
そのことが都で話題になった。
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