政変の原因!首陽大君(スヤンデグン)と安平大君(アンピョンデグン)の対立

 

ハングルを創製した朝鮮王朝最高の名君・世宗(セジョン)には息子が多かった。正室から生まれた息子が8人、側室から生まれた息子が10人。なんと18人もの息子がいたのだ。その中に、首陽大君(スヤンデグン)と安平大君(アンピョンデグン)がいた。




野心家だった首陽大君

首陽大君は世宗の二男で1417年に生まれた。
彼は、儒学はもちろん、天文や兵学にも精通し、風水に関しても専門家以上の知識を持っていた。
音楽理論と楽器演奏にも長けていた。まさに当代随一の学問と強要を兼ね備えていたと言える。
そんな首陽大君の資質を高く評価した父の世宗は、様々な国家事業を彼にまかせ、首陽大君もその期待に応えていった。
しかし、首陽大君がもっとも発揮したのは、武人としての資質だった。力が強く、弓の腕も並はずれたものだった。文武を兼ね備えた豪傑であったことは間違いない。
首陽大君はそんな自分の資質を周囲に見せようとしていた。世宗に、自分を後継者として認めてもらいたかったのだろう。勉強ばかりする兄の文宗(ムンジョン)より文武を兼ね備えた自分こそが王にふさわしいと主張した。
朝鮮王朝では、3代王・太宗(テジョン)が、国のために長男ではなく三男の世宗を後継者にした過去があった。首陽大君もその前例を狙った。
しかし、文宗に対する世宗の信頼はあつかった。
それによって、首陽大君はひどく落胆した。誰よりもよく国を治める自信があっただけに、彼はやるせない気持ちに沈んだ。
ただし、文宗は世子(セジャ/国王の正式な後継者)のときから病弱だった。それが首陽大君の野心がわずかに残る根拠となった。




自分の気持ちにあまりに正直で野心を隠すことができなかった首陽大君は、世宗の治世時代の末期に、まるで自分が王のような発言をしたこともある。文宗が1450年に即位したあとには、公務執行を妨害するなど王族としてあるまじき態度も見せた。
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首陽大君(スヤンデグン)は甥から王位を奪って世祖(セジョ)になった!

王の座を奪った世祖(セジョ)はどんな人生を歩んだのか

世宗(セジョン)の願いをふみにじった世祖(セジョ)の王位強奪!

首陽大君(スヤンデグン)は強い野心で世祖(セジョ)になった!

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