首陽大君(スヤンデグン)は甥から王位を奪って世祖(セジョ)になった!

 

首陽大君(スヤンデグン)は、ハングルを創製して朝鮮王朝最高の聖君と評価される4代王・世宗(セジョン)の二男である。生まれたのは1417年。この年は世宗が王位に就く前年にあたる。逆に言えば、首陽大君が生まれてからすぐに世宗は王になったことになる。いわば、首陽大君は世宗に王位を運んできた息子だった。




うぬぼれが強かった

首陽大君には3歳上の兄がいた。
この兄は世宗の長男で、幼い頃から賢かった。
世宗が大いに期待するのも当然で、首陽大君はいつも兄と比較されながら育った。それだけ兄への対抗心が強かったのだ。
1450年、世宗が世を去り、長男が5代王・文宗(ムンジョン)として即位した。すでに文宗には1441年に生まれた長男がいたので、首陽大君が王位に就く可能性はほとんどなくなった。
あとは王族として少しでも影響力を強めたい、というのが、本来の首陽大君の立場でできることであった。




しかし、実際の首陽大君はそんな脇役に甘んじるつもりはなかった。彼は自分が学問と武芸の両方に秀でていることを自覚し、「我こそ王にふさわしい」と本気で考えていた。自信過剰なほど、うぬぼれが強かったのである。
歴史を振り返ってみても、首陽大君が二男という立場をわきまえて、王になることをあきらめていれば、癸酉靖難(ケユジョンナン)や死六臣という悲劇は起こらなかったはずだった。
(ページ2に続く)

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