仁祖の息子の孝宗(ヒョジョン)と孫の顕宗(ヒョンジョン)はどんな王だった?

 

1649年に即位した17代王の孝宗(ヒョジョン)は、仁祖(インジョ)の二男である。彼は兄の昭顕(ソヒョン)世子(セジャ)と一緒に長く清の人質になっていた。1645年、兄は先に帰国した。この時点で王の後継者は兄だったので、孝宗は分家として王と距離を置くしかなかったのだが……。




父の仇を取りたかった孝宗

予想外のことが起きた。
昭顕世子が帰国後2カ月で急死してしまったのだ。
それでも、朝鮮王朝の慣例では昭顕世子の息子に王位継承の権利があるのだが、仁祖は孫にあたるその男子を済州島に流し、世子の座を強引に孝宗に変えてしまった。この異例の人事によって、孝宗は仁祖の死後に想定外の王位に上がったのである。
彼の治世は10年間続いたが、二男である自分を引き立ててくれた父に感謝し、その王政をほぼ踏襲した。そればかりか、父を屈伏させた清に敵意を持ち、政権内の親清勢力を一掃した。
自身は長く清で人質生活を送りながら、兄のように外国文化に傾倒することはなく、むしろ批判的に捉えていた。こういう気質が、清への復讐に固執した父に気に入られたのかもしれない。
孝宗は軍備を増強して、本気で清に攻め込む気構えを見せていた。しかし、軍拡路線が財政を圧迫し、孝宗も「父の怨念を晴らす」という目的を達することができなかった。彼は40歳で亡くなり、宿願は長男の顕宗(ヒョンジョン)に委ねられた。




1659年に即位した18代王・顕宗は、当初は祖父と父の遺志を継いで清に対抗するつもりだった。
しかし、それどころではない事情ができた。それは、王妃の服喪期間に端を発する“党争”が起こったからである。
仁祖の時代から、官僚の中で西人(ソイン)派が主導権を取っていたが、やがて対抗勢力として南人(ナミン)派も力を付けていき、顕宗が即位した後には西人派と南人派が拮抗(きっこう)するようになった。
両派閥は、儒教を国教としている朝鮮王朝が取るべき学説について、観念的な論争を繰り返した。
特に王妃が亡くなった場合の服喪期間の長さをめぐって激しい応酬があり、その論争は一触即発の危機を生んだ。
顕宗は気苦労が絶えが、1674年に33歳で世を去った。心労が命を縮めたと言われている。
その顕宗の次に王位に上がったのは、顕宗の一人息子の粛宗(スク)(チョン)だった。彼は張禧嬪(チャン・ヒビン)を描いたドラマにかならず出てくる王として名を知られている。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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