浮かび上がった毒殺疑惑
1645年、ようやく昭顕世子は解放されて帰国した。
すぐに昭顕世子は父を訪ねた。しかし、久しぶりの再会にもかかわらず、仁祖はそっけない態度を見せるばかりだった。
それどころか、昭顕世子が清と西洋の文化のすばらしさを語り始めると、露骨に嫌な顔を浮かべ始めた。昭顕世子が帰国の際に持ち込んだ外国の機械や書籍を見せると、仁祖は手元にあった硯(すずり)を昭顕の顔に投げつけて、どなり散らした。
「世子という立場にありながら、憎き清の言いなりになるとは……。今すぐこの場から立ち去れ!」
父の剣幕に驚いた昭顕世子は、悲しみに暮れながら仁祖の前から立ち去った。この事件の2カ月後、昭顕世子は原因不明の死を遂げる。
彼の遺体は、黒ずんでひどく腫れあがっていた。まるで毒殺されたかのようだった。
不可解なことに、仁祖は昭顕の主治医を処罰しなかった。王族が命を落としたら、主治医が処分を受けるのは当然だったのに……。
さらに、仁祖は昭顕世子の葬儀を王位継承者とは思えないほど簡素に済ませた。
仁祖の対応によって、その後に「仁祖が昭顕世子を毒殺したのでは?」という疑いが強く残った。疑惑は、仁祖が昭顕の残された家族までも自決や流罪に追い込んだことで、一層深まっていった。
文=慎虎俊(シン・ホジュン)
記事提供:「歴史カン・ヒボン」http://kanhibon.com/
〔特集〕仁祖(インジョ)と貴人(キイン)・趙氏(チョシ)が捏造した毒アワビ事件!