見方が変わってきた
「孝」を最高の徳目とみなす儒教を国教にしている朝鮮王朝では、「息子」が「母」を処罰することがあってはならない。
この点では、クーデター軍の言い分には一理がある。
ただし、光海君を追放して王位に就いた16代王の仁祖は、自らの正統性を強調するのに必死であった。
そこで、徹底的に光海君を悪者に仕立てあげた。その非難が定着し、以後の朝鮮王朝で光海君は暴君と言われ続けた。
しかし、歴史研究が進むと、光海君に対する見方は変わってきた。光海君を「卓越した外交戦術家」と評価する論調が増えたのだ。
果たして、光海君は暴君なのか。
いや、そうではなかったのか。
少なくとも、10代王の燕山君(ヨンサングン)のような、救いようがない最悪の暴君ではなかった。そのことは確かだ。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
光海君(クァンヘグン)!暴君の汚名から名君へと評価が一変した国王
仁穆(インモク)王后はどうしても光海君(クァンヘグン)を斬首にしたかった!