王宮で起きた虐殺事件
1494年に王となった燕山君は、王としての政務をほったらかしにして、毎日のように酒池肉林を繰り返すようになった。そのときに酒宴場として使っていたのが、朝鮮王朝の最高学府である成均館(ソンギュングァン)だった。
堕落した王の姿をみた庶民は、ハングルで燕山君の悪口を書いた紙をいたるところに貼るなど、反感を示した。それを知った燕山君は激怒して、ハングルの使用を禁止した。
その後、燕山君は母親の斉献王后が罪人として死罪になったことを知った。出世に目がくらんだ者がそのことを話してしまったのだ。今までそのことを知らなかった燕山君は、怒りと悲しみで一晩中泣き続けた。
それによって、王宮は惨劇の舞台となる。燕山君が母親の死に関わった者や傍観していた者を虐殺し、すでに亡くなっている者に関しては墓を掘り起こして首をはねたのである。
数々の暴政を起こして人々を苦しめてきた燕山君は、1506年のクーデターで王宮を追放された。
結果として江華島(カンファド)に流罪となった彼は、その2カ月後に30歳で世を去った。
文=康 大地(コウ ダイチ)
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