太宗が行なった政策
太宗は、王として「国家を安定させるためには、王の力が強くなくてはいけない」という信念を持っていた。彼は、高官や有力貴族を弱体化させるために、私兵の廃止を徹底し、奴婢(ぬひ)の保持にも制限を加えた。さらに、政府の要職を分散させることで、特定の高官に権力が集中しないようにした。
それから、太宗は「崇儒排仏」という政策も行なっている。これは、儒教を崇拝して仏教を排除することだ。この政策は、もともと太祖が進めようとしていたもので、それを息子の太宗が引き継いだのである。結果、仏教寺院は次々に廃止され、寺院が保有していた土地や奴婢は没収された。現代の韓国で、仏教寺院が山の中腹にあるのは、朝鮮王朝時代に市中から追われた名残である。
太宗がこの政策を行なった理由は、仏教寺院が政治に介入しすぎて、国政が乱れてしまった高麗の二の舞になりたくなかったからだ。さらに、太宗は「朝鮮王朝の厳しい身分制度には、人間の序列を決める儒教のほうが合っている」と判断していた。
その後、1418年に三男の忠寧に王位を譲った彼は、王権の行く末を見守りながら1422年に世を去った。
朝鮮王朝の基礎作りに邁進した太宗は、朝鮮王朝27人の王の中で、一番強大な権力を持っていた王だったと言える。
文=康 大地(コウ ダイチ)
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