太宗(テジョン)の剛腕!

 

朝鮮王朝3代王・太宗(テジョン)は、初代王・太祖(テジョ)の五男として生まれたが、後継者に指名されなかったことで「第一次王子の乱」を起こした。その後、彼はどんな行動を取ったのか。

時代劇『龍の涙』で太宗を演じたユ・ドングン




「第二次王子の乱」勃発

芳遠(バンウォン)は、父親の太祖が退位してからいきなり王になったわけではない。2代王・定宗(チョンジョン)として即位したのは、二男の芳果(バングァ)だった。この定宗の役目は、「第一次王子の乱」で起きた骨肉の争いのほとぼりを冷まして、すみやかに王位を譲ることだった。
しかし、兄弟の中で思わぬ揉め事が起こる。四男の芳幹(バンガン)が王の座を狙って、芳遠の命を脅かし始めた。芳遠は、当然のように迎え撃って鎮圧させた。芳幹はそれによって流罪となった。これが「第二次王子の乱」である。
その後、「もたもたしていると、また王の座を狙うものが出てくるかもしれない」と考えた芳遠。一方の定宗も「このままでは自分の身が危ない」と思っていた。その結果、1400年11月に芳遠が3代王・太宗として即位したが、それは、妻である元敬(ウォンギョン)王后の支えが大きかった。
太宗は、1382年に妻である元敬王后と結婚した。彼女は、政敵などが攻めてきたときに、いち早く知らせて夫を支えた。しかし、太宗が王として即位した途端に冷遇されてしまい、元敬王后の実家は落ちぶれてしまった。その理由は、王朝を長く存続させるために、外戚を排除したからである。
元敬王后の支えがあったからこそ、太宗は王になれたのに、彼は、妻の実家も危険な勢力の1つとして見ていたのだ。その標的となったのが、元敬王后の兄弟である。




彼女の2人の兄と2人の弟は処刑されてしまい、それを知った元敬王后はとても悲しみ、王妃になったことを悔やんだ。太宗の側近たちは、元敬王后の廃妃を望んだ。これまで妻に冷たい態度を取ってきた太宗だが、元敬王后を廃妃にはしなかった。
廃妃にならずに済んだ元敬王后は、実家を滅ぼされたことで寂しい晩年を過ごした。彼女の唯一の救いは、息子である三男の忠寧(チュンニョン)が4代王・世宗(セジョン)として即位したことだ。元敬王后は、それを見届けて1420年に世を去った。
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