燕山君と中宗は何をしたのか

 

10代王・燕山君(ヨンサングン)は、9代王・成宗(ソンジョン)の長男だ。彼の母は王妃だったが、廃妃になった末に死罪となっている。そのいきさつを幼い燕山君は知らなかった。父親の成宗が「その話はするな! 絶対に息子に事実を言ってはいけない」と周囲に厳命していたからだ。




怨まれた暴君

成宗は1494年に亡くなり、燕山君が18歳で10代王になった。彼こそは、朝鮮王朝で最悪と言われる暴君だ。
政治を省みないで酒池肉林の生活を送った。それでも、まだ母親の死の真相については知らなかった。
ところが、冷や飯を食っていた官僚の中で何とか出世したいと考える者がいて、燕山君に取り入ろうとして「実は母上が……」と暴露してしまった。事実を知った燕山君は逆上し、大虐殺事件が起こった。
燕山君の母の死罪に関わった人たちは皆殺しにされた。すでに死んでいる人は墓を暴かれて首をはねられた。
燕山君の暴挙に危機感を持った高官たちは、クーデターを計画した。
中心的な役割を担ったのが朴元宗(パク・ウォンジョン)という高官だ。彼には、燕山君に仕返しをしなければならない怨みがあった。




というのは、朴元宗の姉は成宗の兄にあたる月山大君(ウォルサンデグン)に嫁いでいたが、この姉を燕山君が犯してしまい、彼女は自決した。
月山大君といえば燕山君にとって伯父にあたるわけで、その妻を犯すというのはあまりに非道だった。
朴元宗が中心となってクーデターが起こった。燕山君は多くの人の怨みを買っていたので、彼を守ろうという人はいなかった。クーデター軍が王宮にやってくると、護衛兵はみんな逃げてしまった。
ただし、いくらひどい王でも追放するとなると大義名分が必要だ。そこでクーデター軍がかつぎあげたのが、燕山君の異母弟の晋城大君(チンソンデグン)だった。彼も燕山君から相当にいじめられていた。
晋城大君の協力をとりつけようとしてクーデター軍が彼の屋敷に行ったところ、本人は「兄がついに殺しにきた」と早とちりして自決しようとした。妻が必死に止めた結果、何とか事なきを得た。
しかし、晋城大君はクーデターに反対した。兄を追放して王になることが怖かったのだ。それでも説得されて最後にようやく承諾し、クーデターの成功後に彼は11代王・中宗(チュンジョン)になった。




燕山君は島流しとなり、わずか2カ月で病死してしまった。
中宗は周囲にかつがれて王になったので、クーデターを成功させた高官たちに頭があがらない。
それなのに、高官たちは中宗に対して「王妃と離縁してほしい」と迫ってきた。
王妃の端敬(タンギョン)王后は燕山君の妻の姪であり、父親も燕山君の側近だったからだ。端敬王后の親族には燕山君と関係が深い人があまりに多かった。
しかし、中宗は承服できない。彼は、「自決しようとしたときに助けてくれた愛妻となぜ別れなければいけないのか」という心境だった。
中宗は国王なのだから、臣下が何を言ってきてもつっぱねればよかった。
ところが、中宗は気が弱いというかはっきりしない性格で、最後は端敬王后の廃妃に同意してしまった。
そんな中宗は端敬王后を離縁したあと、二番目の正妻として章敬(チャンギョン)王后と再婚したが、彼女は息子を産んですぐに亡くなってしまう。
そこで、中宗は三番目の王妃として文定(ムンジョン)王后を迎えた。これが朝鮮王朝にとって不運だった。なにしろ、文定王后というのは、朝鮮王朝でも一番の悪女といえるような人で、平気で非道なふるまいを繰り返した。




そんな悪行を中宗は見て見ぬふりをした。そういう点で、中宗にも朝鮮王朝の政治を腐敗させた責任の一端がある。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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