人生を左右する科挙にも不正が多かった

 

中国にならって朝鮮半島でも科挙が行なわれるようになったのは、8世紀の新羅(シルラ)時代からである。高麗(コリョ)でも科挙はしっかり受け継がれたが、この制度が官僚登用試験として重要性を増したのは朝鮮王朝が建国されてからだ。

写真はイメージです。

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実施は3年に1回

たとえ家柄がどんなによくても、科挙に通らなければ官僚として任官されないので、両班(ヤンバン)の師弟たちは、必死になって勉学に励んでいた。
科挙にはいくつかの学科があったが、花形はなんといっても「文科」である。ここが、今で言う超難関学部に相当する。
他には「武科」「雑科」などがあったが、政治の中枢までのぼりつめるのなら「文科」に受からなければならなかった。
科挙は原則的に3年に1回実施された。まずは「初試」と呼ばれた1次試験が各地方で行なわれた。
これに受かれば、都で2次試験に該当する「覆試」に臨む。問われるのは、中国の古典や儒教(朱子学)の理解度だ。
特に、儒教の教義を徹底的に丸暗記できなければ、合格がおぼつかなかった。
「覆試」に合格すると、王の御前で「殿試」を受ける。今の就活にたとえれば、希望する会社の最終面接で社長に相対するようなものだ。成績優秀な両班の師弟たちも、王の機嫌を絶対にそこねないように必死だったことだろう。
一応は厳格に行なわれていたように思える科挙も、実は高官の息子が優遇されたり、今でいう裏口入学のようなものが横行したりしたようだ。




そんな風潮に憤って、最高学府だった成均館(ソンギュングァン)の高官が、1818年に「科挙の八弊」を告発している。
この場合の「八弊」とは、以下のような不正だ。
・答案用紙をすりかえてしまう
・参考書を試験会場に持ち込む
・カンニングをする
・事前に試験問題を手に入れる
・受験生をすりかえてしまう
・怪しい人物が試験会場にもぐりこむ
・外で書いた答案用紙を提出する
・文を作成するときにおかしな細工をする
確かに、あらゆる不正が含まれているように思える。
今から200年前の告発だが、「時代が変わっても、やることが結局は同じかな……」という気がしないでもない。




いずれにしても、先にあげた「八弊」を通して科挙に合格して官僚になった人が確実にいたわけであり、そういう人が出世をしたとすれば、政権内部が腐敗していくのも、やはり避けられなかったことだろう。
成均館の高官が科挙の現実に憤ったのも無理はない。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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