朝鮮王朝最高の名君だった世宗(セジョン)

 

朝鮮王朝4代王・世宗(セジョン)は、朝鮮王朝最高の聖君と呼ばれている王様だ。いったいどのような功績を残し、そう呼ばれるようになったのか。彼の歴史をひも解いていこう。

ソウル中心部にある世宗の銅像




世宗の幼少時代

世宗は、朝鮮王朝3代王・太宗(テジョン)の三男で、王になる前は忠寧(チュンニョン)という名前だった。彼には2人の兄がおり、朝鮮王朝時代には長男が後継ぎになるという原則があったため、忠寧は本来なら王になることができなかった。
その忠寧に関して、こんな逸話が残っている。
幼いころから本を読むのが好きだった忠寧は、体調を崩して病床に就いても本を読むことを止めなかった。それを見た太宗は、側近に命じて本を隠してしまうが、忠寧は屏風の後ろから本を引っ張り出して何度も読み返した。
太宗は、自分の後継ぎを誰にするかで悩んでいた。原則で言うならば、長男の譲寧(ヤンニョン)が後継ぎとなるが、太宗は三男である忠寧に素質を感じていた。そんな父の思いを知った譲寧は、「忠寧は自分より頭がいいから、国が安泰するだろう」と思い、放蕩(ほうとう)を繰り返したり、酒浸りになったりした。その結果、彼は後継ぎとなる権利を剥奪されてしまう。




二男の孝寧(ヒョニョン)はそんな兄の行動に驚いたが、自分が次の王になると自覚すると、今まで以上に勉学に励むようになった。しかし、彼は自分の能力の限界に苦しむようになる。その中で、兄の譲寧がわざと無能を演じたことに気づくと、孝寧は頭を丸めて仏門に入り、王位の継承権を忠寧に譲った。
2人の兄から権利を譲られたことにより、忠寧が後継ぎとなり、1418年に4代王・世宗として即位した。しかし、王になったばかりで経験が浅かった世宗だが、実際に実権を握っていたのは父親の太宗だった。そのため、太宗が王だったときと何も変わっていなかった。
1422年、太宗が世を去ったことにより、世宗が正真正銘の王となって実力を発揮した。もともと聡明だった彼が持つ指導力は、政治や経済など幅広く及んだ。さらに世宗は、王に何か不備があったとき混乱しないように国権を分散して、後継ぎにも一定の権力を渡している。
彼は、本来なら厳しい身分制度によって、今までできなかった「身分の低い人にも役職を与えて出世させる」ということを行なうなど、人事活用の面でも優れた才能を発揮した。
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