永昌大君(ヨンチャンデグン)を殺された上に、西宮(ソグン)に幽閉された仁穆(インモク)王后と貞明公主(チョンミョンコンジュ)。悲しみのどん底に突き落とされた2人にとって、ついに恨みを晴らす日がやってきた。光海君(クァンヘグン)の王位に対するクーデターが起こったのである。
王の座を脅かす人物
光海君に強い恨みを持っていたのは、仁穆王后と貞明公主だけではなかった。14代王・宣祖(ソンジョ)の孫であった綾陽君(ヌンヤングン)も、光海君のことを強く恨んでいた。
この綾陽君は、光海君の甥であった。彼はなぜ光海君に恨みを抱いたのか。それは、最愛の弟を殺されたからである。
その背景を見てみよう。
光海君は宣祖の二男であったが、五男にあたるのが定遠君(チョンウォングン)である。この定遠君には綾昌君(ヌンチャングン)という優秀な息子がいた。しかし、あまりに頭が良すぎるがゆえに、光海君の一派から「王の座を脅かす人物」と警戒され、謀反(むほん)の罪を捏造された末に処刑されてしまった。
父の定遠君は最愛の息子を失って絶望の中で世を去った。親族の悲劇に直面し、強い復讐心を燃え上がらせたのが、綾昌君の実兄の綾陽君だったのである。
綾陽君はクーデターを計画し、同志を募った。光海君に恨みを持つ人が次々に集まってきた。
綾陽君は周到に準備を進め、1623年3月13日の明け方に王宮に踏み込んだ。
光海君とその一派は迂闊(うかつ)だった。まさか、クーデターが起きるとは予測していなかったのだ。
虚を突かれた光海君は、逃走するのが精一杯だった。彼を守るはずの護衛軍も、その多くがクーデター軍に内通していた。
王としての光海君は、政治的に業績が多かった。異民族との外交も巧みだったし、庶民にとって減税となる政策も行なった。しかし、王位を守る過程で兄弟を2人も殺し、母にあたる仁穆王后を幽閉していた。
こうした非道な行為によって、あまりに多くの敵を作りすぎていた。結局は、人心を掌握できなかったことが致命傷になった。
逃亡した光海君を捕らえてから、綾陽君は使者を西宮に送った。仁穆王后にクーデターの成功を報告するためだった。
しかし、仁穆王后は意外な反応を見せた。
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