14代王・宣祖(ソンジョ)/朝鮮王朝国王列伝14

 

生没年/1552年~1608年
在位/1567年~1608年

13代王・明宗(ミョンジョン)の後を継いだのは、11代王・中宗(チュンジョン)の孫だった。彼は幼少の頃から賢く礼節を尊んでいたことで評判が良かった。多くの候補者の中から選ばれ、1567年に14代王・宣祖(ソンジョ)となった。




都を捨てて逃げた王

宣祖は即位当初から学問に励み、儒教の教えにも精通し、大物儒学者の李滉(イ・ファン)と李珥(イ・イ)を高く評価した。李滉が亡くなったときは、3日も政務を休み哀悼するほどだった。
さらに、士禍(サファ)によって身分を剥奪された人物たちの名誉を回復することにも力を注いだ。結果として、宣祖の治世では文臣たちの力が強まった。
しかし、平穏な時間は長く続かなかった。文臣たちの間にも派閥が生まれ、激しく対立するようになったからだ。宣祖は李珥に争いの仲介を命じたが、事態は一向に収まらず、李珥が亡くなると一層激しく対立するようになった。内政が不安定になることで、辺境の守備も疎かになった。
混乱する情勢の中、1592年には豊臣軍の攻撃で戦乱(壬辰倭乱〔イムジンウェラン〕)まで起こってしまった。宣祖はこの戦いでいち早く、首都である漢陽(ハニャン)を捨てて逃げ出してしまい、庶民の不信を買ってしまう。
1598年、約7年に及んだ壬辰倭乱は終結するが、その爪痕は長く朝鮮王朝を苦しめる。宣祖は復興策として、壬辰倭乱で成果をあげた者には身分に関係なく褒美を与えた。




また、賤民(チョンミン/最下層の身分)から平民になれる機会が増えたことあり、朝鮮王朝の身分制度は宣祖の時代に大きく変わっていった。

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