「三大悪女」の中で実は悪女でなかったのが張禧嬪?

事実は違うのでは?

将来王になる男の母が死罪となれば、後々に禍根を残す可能性が高かった。翻意を求められた粛宗ではあったが、彼は決定を変えなかった。
1701年、張禧嬪は42歳で死罪となった。
以後、「善の仁顕王后」対「悪の張禧嬪」という図式が今に至るまで残り、張禧嬪は酷評を受け続けてきた。
しかし、世間が言うほど本当に悪女だったのか。
そこには、つくられた「悪」という要素がなかったのだろうか。
なぜかというと、張禧嬪に関する世間の評判は、「朝鮮王朝実録」の粛宗時代の記述がもとになっているからだ。ここで、その記述の背景を見てみよう。
粛宗は在位が46年間に及んだので、実録をまとめる作業に大変な時間がかかった。しかも、次の王となった景宗(キョンジョン/張禧嬪の息子)が在位4年で世を去ったために、その作業は英祖の時代に引き継がれた。
それを機に編纂責任者が交代し、実務担当者は英祖の息がかかった者ばかりになった。英祖は淑嬪・崔氏の息子であり、その母は張禧嬪と対立していた。こうした経緯もあって、「朝鮮王朝実録」の編纂作業は張禧嬪に不利な形になってしまった。




三角錐は、上から見たら丸だが、横から見たら三角である。同じ物でも角度が変われば見え方が違う。ましてや、人間の感情が入れば、同じ事実でもまるで違う表現になってしまうだろう。
張禧嬪は果たして、本当に悪女だったのか。あるいは、周囲によって人物像を歪められただけなのか。彼女の実像は謎に包まれている。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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