外交政策の選択/光海君物語4

 

光海君(クァンヘグン)の政治的な業績を見てみます。光海君が1608年に即位したときは、豊臣軍による朝鮮出兵からわずか10年で、国土がまだ荒廃しており、王宮のほとんどが焼失していました。戦乱の後遺症があまりに大きかったのです。

写真=韓国MBC『華政』公式サイトより




明と後金

王宮がないと朝廷として行政ができませんので、光海君は王宮の復興に力を入れます。また、朝鮮通信使を派遣しながら徳川幕府との関係を強化して、東の隣国に対する憂いをなくしました。さらに光海君が力を入れたのが、北方の異民族国家である後金との外交関係でした。
後金は、今でいう中国の東北部、かつての旧満州から興った国です。17世紀の初めは明が中国大陸を支配していましたが、かなり斜陽になっており、日の出の勢いの後金と激しく争うようになります。
1619年、明は後金に惨敗してしまいます。明らかに明の国力が衰えていたのです。両国の間に入って、朝鮮王朝はどういう態度を取ったのでしょうか。
朝鮮王朝は建国以来、明を崇めていました。とにかく、小さな国は大きな国に逆らってはいけない、という考え方でした。そういう主旨のもとで、国事に関しても明にお伺いを立てていたし、豊臣軍の朝鮮出兵のときには援軍を派遣してもらったのです。
ところが、光海君は危機感を持っていました。




「明は国力が傾いていて、後金には勢いがある。あまりに明に肩入れしすぎると、後金によって滅ぼされる恐れがある」
光海君はそう心配していたのです。
明と後金の1619年の戦いのときも、明は朝鮮王朝に対して援軍を要請しています。
「朝鮮出兵のときにあれだけ助けたではないか。今度はそちらが援軍を出してくれ」というわけです。
確かに、朝鮮出兵のときの恩義があります。しかし、光海君は熟慮の末に、すぐに援軍を出さない決断をしました。後金ににらまれたくなかったからです。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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