明宗(ミョンジョン)は母の文定(ムンジョン)王后の悪政に苦しめられた

康熙奉(カン・ヒボン)著『いまの韓国時代劇を楽しむための朝鮮王朝の人物と歴史』(実業之日本社発行/2018年11月2日発売)

悪政が招いた結果

私腹をこやす悪徳官僚が跋扈(ばっこ)する悪政が続く中で、不運にも16世紀なかばには凶作が続いた。人々の暮らしは困窮したが、もはや政治が民を救済することはできなかった。
死もまた社会還元、という考え方が当時の朝鮮半島にあろうはずもないのだが、現実的には文定王后の死が人々の困窮を救う唯一の方法であったことは確かだ。




1565年、文定王后は64歳で人々の怨嗟(えんさ)が満ちあふれたこの世を去った。こうなると、取り巻きの立場は一気に危うくなる。文定王后の威光にすがっていた尹元衡と鄭蘭貞は逃亡した末に自決せざるをえなくなった。それは「自業自得」という言葉が象徴するように哀れな死だった。
母と叔父の死を明宗はどのように受け止めたのだろうか。
このとき彼は31歳。混乱した国政を立て直すことを期待されたのだが、もはや明宗には生気が残っていなかった。
それほど母の悪政は明宗の精神と肉体を苦しめた。
1567年、明宗は33歳で亡くなった。母の死からわずか2年後だった。
あまりに早すぎる明宗の死……母の悪政が招いた結果であることは間違いない。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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