儒教を通した歴史の見直し
特に、朝鮮王朝でも後期になると、王朝の上層部の間で儒教における「礼論」(礼節に関する論理)が非常に細かく論議されるようになった。中でも重視されたのが、父母や目上の人に対して礼節を守ることだった。
一例を挙げよう。端宗(タンジョン)は1452年に6代王として即位したが、叔父であった首陽(スヤン/後の7代王・世祖〔セジョ〕)に王位を強奪され、最後は平民に格下げとなって1457年に死罪となった。以後もずっと名誉は回復されていなかった。
しかし、19代王の粛宗(スクチョン)の治世となってから、「王位に就いていた方に対してあまりに無礼」という礼論が起こり、1698年になって復位の栄誉を得た。つまり、死後241年を経て、ようやく王として祀られることになったのである。そして、「端宗」という尊号を贈られた。
こうした事例は、過去に礼節を欠いていることがあれば積極的に見直す、という風潮が生まれた結果である。
以上のように、朝鮮王朝の後期には「儒教を通した歴史の見直し」が積極的に行なわれた。まさに、儒教こそが絶対的な価値観だったのである。
文=康 熙奉(カン ヒボン)