党争が激化した
孝宗は軍備を増強して、本気で清に攻め込む気構えを見せていた。
しかし、軍拡路線が財政を圧迫し、孝宗も「父の怨念を晴らす」という目的を達することができなかった。彼は40歳で亡くなり、宿願は長男の顕宗(ヒョンジョン)に委ねられた。
1659年に即位した18代王・顕宗は、当初は祖父と父の遺志を継いで清に対抗するつもりだったが、それどころではない事情ができた。それは、かつての王妃の服喪期間に端を発する「党争」が起こったからである。
仁祖以降は、光海君(クァンヘグン)追放のクーデターを成功させた西人(ソイン)派が主導権を取っていたが、やがて対抗勢力として南人(ナミン)派も力を付けていき、顕宗が即位した後には西人派と南人派が拮抗(きっこう)するようになった。
両派閥は、儒教を国教としている朝鮮王朝が取るべき学説について、観念的な論争を繰り返した。
特に、かつての王妃が亡くなった場合の服喪期間の長さをめぐって激しい応酬があり、その論争は一触即発の危機を生んだ。
顕宗も気苦労が絶えなかった。彼は1674年に33歳で世を去ったのだが、心労が命を縮めたと言われている。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
『華政』の貞明公主(チョンミョンコンジュ)はなぜ大地主になれたのか