光海君(クァンヘグン)が追放された後、彼の統治時代の歴史が「朝鮮王朝実録」に記録されました。クーデターを成功させた仁祖の一派が作りましたので、自分たちのクーデターを正当化するために光海君を大変な悪者に描写しています。それが、後々まで朝鮮半島で光海君が暴君と言われた理由です。
大変な剣幕
確かに、当時の「朝鮮王朝実録」を読むと、光海君に対してひどい蔑称を使っていて、光海君を悪者にしようという意図が露骨に見えます。
燕山君を追放した1506年の「中宗反正」は、暴政を終わらせたという意味で本当の「反正」であることに間違いありません。
しかし、仁祖(インジョ)は、悪い政治を正すというより個人的な恨みを晴らすために決起しました。光海君の一派によって殺された弟の復讐がクーデターの目的だったのです。つまり、事情は個人的であり、大義はありませんでした。
仁祖にも後ろめたい気持ちがあったのでしょう。クーデターを起こしたとき、西宮に幽閉されていた仁穆(インモク)王后をかつぎだそうとしました。そこで、仁祖は使者を送って仁穆王后に「光海君を追放する号令を出してください」と頼みます。
仁穆王后は父と息子を光海君の一派に殺されています。これまでの恨みが晴れるのだから仁穆王后は喜んで号令を出すと思いきや、むしろ激しく怒りだします。
「この10年、誰も見舞いにこなかった。どれだけ寂しい思いで暮らしていたことか。いまさらやってきて、どういうつもりなのか」
大変な剣幕でした。
あわてた仁祖は自ら西宮に行って、まさに土下座のような形で仁穆王后に何度も詫びを入れて、ようやく機嫌を直してもらいます。このとき、仁穆王后が出した条件が、「光海君の首をはねろ」ということでした。
仁祖としては、とうてい呑めない条件です。「いくら王宮から追放したとはいえ、先の王の首をはねてしまえば、非道な王と評されるおそれがある。歴史でどんな扱いを受けるかわからない」と彼は考えたのです。
しかし、仁穆王后も絶対に譲りません。仁祖との間で押し問答が続きます。仁穆王后の意見は強硬でしたが、仁祖も最後までそれに抵抗して、光海君の首をはねることはしませんでした。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)