昭顕(ソヒョン)世子は人質から帰国直後に毒殺された

 

1637年1月、清の大軍に攻められて敗北した朝鮮王朝は、16代王・仁祖(インジョ)が屈辱的な謝罪をして滅亡を免れた。しかし、昭顕(ソヒョン)世子を初めとして仁祖の3人の息子が人質として清に送られた。その昭顕世子が人質生活を終えて母国に帰ってきたのは1645年2月のことだった。




父子の関係が悪化

慟哭して息子たちを清に送った仁祖。8年ぶりに長男が帰ってきて感動の再会を果たすと思いきや、仁祖は不機嫌だった。清と仲良くなった昭顕世子が王位を狙っていると仁祖が勘違いした結果だった。
父と対面した昭顕は、清の文明の先進性を語った。激怒した仁祖は昭顕に向かって硯を投げつけた。
「お前の顔は見たくない!」
もはや父子の関係は決定的に悪化した。
その直後に衝撃的なことが起こった。
帰国したばかりの昭顕世子が、急に高熱を発して倒れた。
それは、1645年4月23日のことだった。
「大変なことになった。世子様が心配だ」
宮中は大騒ぎになった。




しかし、昭顕世子の病状は回復せず、4月26日に息を引き取った。
このあとの仁祖の態度が異様だった。
王位を継ぐべき世子が亡くなったというのに、その葬儀を信じられないほど冷遇したのだ。服喪期間も短縮される有様だった。
これでは、仁祖が世子の死を悲しんでいないと思われても仕方がなかった。
なぜ、仁祖はそんなことをしたのか。
しかも、葬儀の冷遇だけではなかった。
本来なら、昭顕世子の息子が正統的な世子として認められるべきなのに、仁祖は強引に自分の二男を世子にしてしまった。この二男が鳳林(ポンニム)大君である。
(ページ2に続く)

17代王・孝宗(ヒョジョン)/朝鮮王朝国王列伝17

仁祖(インジョ)の正体!王になってはいけない男

悪夢の父子!仁祖(インジョ)と昭顕(ソヒョン)世子の確執

歴史解説!仁祖(インジョ)と貞明(チョンミョン)公主の確執

仁祖(インジョ)と昭顕世子(ソヒョンセジャ)の不幸な親子関係!




固定ページ:

1

2

関連記事

ページ上部へ戻る