光海君(クァンヘグン)の正体!朝鮮王朝15代王の功罪(再読版)

 

光海君(クァンヘグン)は、時代によって評価がわかれる国王である。クーデターで王位を追われているので、暴君としての悪評が高かった時期もあれば、実は暴君どころか名君であったという評価が出ている時期もある。果たしてどちらが光海君の正体なのか。

側近たちがやり過ぎた

父親の宣祖(ソンジョ)が1608年に世を去ったことによって、次男であった光海君(クァンヘグン)は15代王として即位した。本来であれば、長男の臨海君(イメグン)が王位を継承すべきだったのだが、彼は素行に問題があるということで世子(セジャ)に指名されなかった。
ただし、光海君の王権は安定していなかった。兄の臨海君が光海君に批判的な態度を見せて王位を奪還する構えを見せていたし、宣祖の正室であった仁穆(インモク)王后が産んだ永昌大君(ヨンチャンデグン)も、正統的な後継ぎとしての立場を持っていた。




永昌大君はまだ2歳だったので王となることはできなかったが、彼が成長した際には側近たちが動いて、光海君の王位を脅かす可能性が高かった。いわば、光海君は薄氷を踏む中で王として生きていたのである。
その焦りもあったのだろう。
また、側近たちがやり過ぎた面もあったはずだ。
結果的に、光海君は1609年に臨海君を自害に追い込み、さらに1614年に永昌大君を殺害している。
(ページ2に続く)

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