悲劇の餓死事件
荘献は生活態度に難がありました。
酒癖が悪かったり自分の側室を殺してしまったり……。
このように、本人に問題があったことは事実ですが、派閥争いの巻き添えになった部分もありました。結局、荘献の行状は尾ひれがついて英祖の耳に届き、それが度重なるにつれて、ついに英祖の堪忍袋の緒が切れてしまいました。
「お前が王を継いだら王朝は大変なことになる。いっそのこと、自害しろ」
英祖は我が子に非情の王命を発します。しかし、荘献は謝罪を繰り返すだけで、自ら命を絶つことができませんでした。英祖の怒りは収まらず、「自害しろと言っても自害しないのなら、米びつをもってまいれ」と側近に命じ、運び込まれた米びつに荘献を閉じ込めました。
いつ死んだのかは不明ながら、8日目に米びつを開けてみたら荘献は餓死していました。なんということでしょうか。父王が世子を飢え死にさせるというむごたらしいことが王宮で起こってしまったのです。
英祖は息子が亡くなってからすごく後悔して、息子に思悼世子(サドセジャ)という尊号を贈ります。「世子を思って心から悼む」という意味でしょうが、なぜ生前に米びつを開けなかったのでしょうか。
ちなみに、餓死事件が起こったのは1762年で、英祖は68歳でした。そして、思悼世子は27歳で絶命しています。
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