英祖(ヨンジョ)と思悼世子(サドセジャ)の悲惨な親子関係/朝鮮王朝歴史全集14

 

1701年10月、粛宗(スクチョン)の命令によって、張禧嬪(チャン・ヒビン)は死罪と決まりました。死を覚悟した張禧嬪は「世子に会わせてください」と懇願しました。この世子とは、張禧嬪が1688年に産んだ粛宗の長男です。

写真=植村誠




張禧嬪の最期

あまりに張禧嬪が懇願するので、粛宗は世子を彼女に会わせました。
張禧嬪は最愛の息子を抱きしめて今生の別れを惜しむ……かと思いきや、実は違うのです。張禧嬪は何を思ったのか、当時13歳になる息子の腹の下あたりをギュっと握って、そのまま離さなかったそうです。
息子はそれにビックリして失神してしまうほどでした。張禧嬪がなぜそんなことをしたのか、いまだに謎です。
その直後、張禧嬪は死罪になりました。享年42歳。その波瀾万丈な生涯はいかにもドラマ向きと思えるのか、彼女ほど韓国時代劇で何度も取り上げられた人物は他にいません。まさに、朝鮮王朝で一番有名な女性だと言えるでしょう。
一方、張禧嬪のライバルだった淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏は、1718年に世を去っています。




張禧嬪に比べると非常に地味で、後世でもほとんど名前が知られていませんでした。そんな事情を一変させたのがドラマ『トンイ』です。この作品で淑嬪・崔氏が主人公のモデルになったことから、今では韓国人の多くが淑嬪・崔氏を知ることになりました。ドラマの影響力はかくも大きいのです。
(ページ2に続く)

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