不可解な昭顕世子(ソヒョンセジャ)の急死/朝鮮王朝歴史全集11

 

1637年1月、侵攻してきた清に屈伏した16代王・仁祖(インジョ)は、清の皇帝の前で屈辱的な謝罪を行ないました。その代償は大きく、仁祖の3人の息子たちは人質として清に連行されました。長男の昭顕(ソヒョン)世子(セジャ)も長く清に抑留されたのです。

写真=植村誠




激怒した国王

清の人質になった昭顕世子はどうなったでしょうか。
彼は長い抑留生活を経て1645年に戻ってきました。
さぞかし、やつれているかと思ったら、そうではありませんでした。彼は清に居住している西欧人たちとも交流を深め、自分の世界観を広めて帰ってきました。仁祖への帰国挨拶のときも、いかに外国の文物が優れているかを力説しました。
すっかり人が変わったようになっている昭顕世子に対し、再会できた喜びも失せた仁祖は憤慨します。
「次の王になるべき世子が清への怨みを忘れたばかりか、すっかり外国かぶれしている。こんなことで王朝を守れるのか」




仁祖は激怒していました。
腹にすえかねた彼は昭顕世子に硯を投げつけました。親子の感激の対面も一転して険悪な雰囲気に包まれてしまったのです。
昭顕世子が急死したのはその2カ月後です。
(ページ2に続く)

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