逃亡の途中に何が起こったのか
高麗王朝31代の恭愍王(コンミンワン)は、奇轍を厳しく処罰した。奇轍の死を知った奇皇后は、激怒して高麗王朝に配下の軍を送った。しかし、高麗王朝軍に敗れてしまった。
この一件で、奇皇后の立場はすっかり弱くなった。もはや落日であった。
起死回生に打って出た奇皇后は、皇帝のトゴン・テムルに対し、わが子のアユルシリダラに皇位を譲ることを懇願した。しかし、トゴン・テムルは拒んだ。
騒動の中で、クーデターも起きて奇皇后は捕虜になってしまった。
そんなときに状況が一変した。トゴン・テムルの正室だったバヤン・フトゥクが急死したのだ。他に候補がいなかったので、奇皇后がトゴン・テムルの正室になった。
奇皇后はついに悲願を果たした。しかし、肝心の元が滅亡寸前になってしまった。
1368年、あらたに中国で明が建国された。明の大軍は元の首都を占拠。追われるように、元の皇室はモンゴル高原に逃げていき、そこで新たに「北元」を名乗った。
トゴン・テムルは逃亡中に絶命したので、北元の皇帝にはアユルシリダラが就いた。
これは、奇皇后が一番望んだことだ。しかし、この時点で奇皇后の消息は不明だった。彼女も逃亡する途中で行方がわからなくなっていた。
奇皇后の最期は誰にもわからなかった。
果たして、どこで息絶えたのか。
あるいは、意外な場所でひっそりと生き残ったのか。
すべては謎に包まれていた。
文=「韓国時代劇アンニョン」編集部
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