王宮を追放されたのは2人
さらに、王位継承問題を複雑にさせていたのが、朝鮮王朝の病巣とも呼ばれた「党争」である。
これは熾烈な派閥闘争のことだ。官僚たちは儒教的な価値観の解釈によって分裂や集合を繰り返しながら、敵対派閥をつぶすことに血眼になった。その弊害が王位継承問題にも及んだのである。
朝鮮王朝には、クーデターで王宮を追われた王が2人いる。10代王の燕山君(ヨンサングン)と15代王の光海君(クァンヘグン)だ。
燕山君は最悪の暴君として悪政の限りを尽くした。彼が廃位となったのも自業自得であった。
その一方で、光海君は激しい党争の末に王宮を追放されている。彼は一時は暴君と称されたが、歴史研究が進むにつれて、庶民への減税と巧みな外交で朝鮮王朝の窮地を救っていたことが明らかになっている。
光海君は、暴君というより名君と言われても不思議がないほどだ。
光海君を追放した派閥が歴史書などで彼を辛辣に中傷したために暴君と見なされたままだったのである。ただし、光海君も王位を継承する過程で兄弟を殺すという事件を起こしている。
そういう点では評判が良くないのだが、こと政治家としての力量を見ると、成し遂げた業績が多いと言える。(ページ4に続く)