王妃はこうして巨悪の大妃になった!

毒殺説の首謀者

文定王后が政治を仕切った16世紀中盤には干ばつがあまりに多かった。
餓死者が続出したのだが、文定王后は悪政を続けて見殺しにした。
その一方で、自分の一族で富を独占した。文定王后によって、朝鮮王朝はどれほど不幸に陥ったことか。
その責任は本当に大きい。
次は、貞純(チョンスン)王后〔1745~1805年〕だ。
21代王・英祖(ヨンジョ)の二番目の正妻だったが、彼女は英祖より年齢が51歳も年下だった。
なにしろ、英祖の息子であった思悼(サド)世子が10歳上なのである。ところが、相性が悪かったこともあり、思悼世子の失脚をはかって陰で動いた。
結局、思悼世子は米びつの中で餓死した。




貞純王后は、22代王・正祖(チョンジョ)の時代になって辛うじて罪をのがれたが、1800年に正祖が亡くなったときは毒殺説の首謀者と見なされた。
(ページ3に続く)

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