公私のけじめ
孝懿王后は、王妃になった後も実に評判がいい女性だった。
姑の恵慶宮(ヘギョングン)は厳しい人だったが、孝懿王后はよく尽くし、その人柄の良さは宮中で誰もが尊敬するほどだった。
当時、王妃になると、宮中の高価な物を実家に送る例が多かった。そうやって、実家を裕福にしたのである。
しかし、孝懿王后はそういうことを一切しなかったと言われている。
そして、自分は質素な生活を続けた。
人間的にこれ以上の王妃はいなかった。
しかし、最後まで子供を宿すことはできなかった。後継ぎを側室に託さなければならない点は心苦しかったであろう。
1821年、68歳のときに亡くなった。
孝懿王后は今でも韓国で「もっとも徳があった王妃」として記憶されている。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
正祖(チョンジョ)の改革をつぶした貞純(チョンスン)王后/朝鮮王朝歴史全集16