朝鮮王朝人物列伝特選1「光海君(クァンヘグン)」

王の地位に迫る危機

1598年、豊臣軍の撤退によって朝鮮出兵は幕を下ろしたが、後継者の選定についてはまだ明から許可がおりなかった。
そうした状況の中、最初の正室である懿仁王后が亡くなり、宣祖は再婚して仁穆(インモク)王后を二番目の正室に迎える。
この仁穆王后が1606年に念願の嫡子である永昌大君(ヨンチャンデグン)を産んだ。宣祖はようやく生まれた待望の嫡男を、すぐにでも王位に就けたいと強く思った。しかし、彼はその願いを叶えることができないまま、1608年に世を去ってしまう。
王が後継者を指名しないまま亡くなれば、王妃が次の王を指名するのが通例だったが、仁穆王后もまだ2歳の永昌大君を王にするのは躊躇した。こうして、光海君が15 代王として即位するのだった。
しかし、光海君が即位しても王位継承争いは落ち着かなかった。いまだ中国の明がまた光海君の即位を認めなかったのだ。さらに、王になれなかった臨海君もまた、光海君への批判を繰り返していた。
この状況を不安視した光海君を支持する派閥の大北(テブク)派は、1609年に臨海君を謀殺するのだった。
臨海君の排除が終われば、当然ながら標的は永昌大君に移る。




彼らは仁穆王后の一族が王位転覆を狙っていると濡れ衣を着せると、永昌大君を江華島(カンファド)に島流しにして、仁穆王后を離宮(現在の徳寿宮〔トクスグン〕)に幽閉してしまった。
大北派の陰謀はこれだけではなかった。1614年、彼らは永昌大君を部屋に閉じ込めて焼死させている。永昌大君はまだ8歳だった……。
結果的に光海君は、兄と弟を殺害しただけでなく、義理の母になる仁穆王后を離宮に幽閉したのだ。儒教社会において徳を欠くこの行為は、とても容認できるものではない。これが、後世で光海君が暴君と呼ばれる最大の原因である。
しかし、光海君は外交面で多大な成果を残していて、内政面でも庶民の減税に尽力するなど、有能な王だったことは間違いない。業績だけ見れば名君と言われてもおかしくなかったのだ……。
(ページ3に続く)

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