「朝鮮王朝三大悪女」の中で誰が一番の悪女か?

王妃に昇格

1688年、張禧嬪は王子を産んだ。27歳の粛宗にとって初めての息子だった。この瞬間から、張禧嬪は自分の息子を王にするために命をかけるようになった。
世子(セジャ/王の正式な後継者)は、正室から生まれた男子が優先される。いくら病弱でも仁顕王后はまだ若い。彼女がもし粛宗の息子を生むようなことがあれば、張禧嬪が産んだ息子は世子になれない。
張禧嬪の狙いはただ一つ……なにがなんでも正室になることだった。そのためにも、仁顕王后を廃妃にしなければならなかった。
実際、息子が生まれてから粛宗は以前よりもっと張禧嬪を寵愛したが、王の心をつかんでいるという自信が彼女を増長させた。
当時の政権は、西人(ソイン)派と南人(ナミン)派という二つの派閥が激しい権力闘争を繰り広げていた。所属をいえば、仁顕王后は西人派で張禧嬪は南人派だった。




張禧嬪にとっては、南人派が権力闘争で優勢になったことが幸いした。逆に、頼りの西人派が力を失って仁顕王后は難しい立場になった。しかも、すでに粛宗の心は仁顕王后にはなく、彼は1689年に廃妃を決定した。寵愛する張禧嬪との間に生まれた息子を世子にするために我を押し通したのだ。
そして、空いた王妃の座に張禧嬪が昇格したのである。
王妃となった張禧嬪は有頂天の日々を過ごした。
しかし、彼女の自信に満ちた日々は長く続かなかった。
粛宗には、新しく寵愛する女性ができたからである。その女性が淑嬪(スクピン〕・崔(チェ)氏だった。時代劇『トンイ』の主人公になった女性である。
(ページ5に続く)

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