激しい後継者争い/光海君物語1

 

15代王・光海君(クァンヘグン)は、クーデターで廃位にされた王ということで、かつては暴君というイメージが先行していました。しかし、その後の歴史研究が進むと、「そうではないのではないか」と評価が変化してきました。

写真=韓国MBC『華政』公式サイトより




兄は臨海君

果たして、実際の光海君はどのような王だったのでしょうか。
父親は14代王・宣祖(ソンジョ)です。彼は朝鮮王朝で初めて側室から生まれた王でした。13代王までは、すべて王の正室から生まれています。それが嫡子なのですが、宣祖の場合は庶子になります。朝鮮王朝には厳しい身分制度があり、庶子出身の人はほとんど出世できませんでした。そういう庶子から王になったということで、宣祖は大変なコンプレックスを持っていました。
それだけに、自分が指名する世子(セジャ/王の正式な後継者)は正室が産んだ息子を当てたいと思っていたのですが、宣祖の正室は身体が弱くて子供ができなかったのです。結果的に、側室が産んだ息子の中から選ばざるを得ませんでした。
候補は2人いました。臨海君(イメグン)と光海君です。2人とも同じ側室から生まれた兄弟で、臨海君が兄です。
伝統からいくと、世子には兄の臨海君がふさわしいのですが、性格がやや粗暴でした。一方、弟のほうが優秀だったために、光海君を推す声が強くなり、最終的に宣祖は彼を世子に指名しました。
当時、世子の決定には中国大陸の明の許可が必要でした。その明の許可を待っている段階で、1592年に朝鮮出兵が起こり、朝鮮半島が戦乱に巻き込まれました。




その際に、臨海君が加藤清正軍の捕虜になってしまいます。地方に行って義勇軍を集めようとしたときに臨海君がつかまってしまい、以後も捕虜として連れまわされました。臨海君にとっては大変な屈辱であり、釈放された後も酒浸りになって生活が乱れてしまいました。
一方の光海君。彼は地方で義勇軍を組織して戦功をあげました。これによって光海君はどんどん評価を高めて、彼の立場は磐石になったのですが、戦乱が終結しても明からの許可がまだ出ませんでした。明は「なぜ年長の臨海君を第一に考えないのか」と疑問を呈していたのです。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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