光海君は朝鮮王朝でどんな国王だったのか

 

朝鮮王朝・15代王の光海君(クァンヘグン)がクーデターで王座から下ろされたのは1623年のことだった。彼は48歳になっていた。「王座から下ろされた」と言うと、非道なことを行なった暴君だったと思われるのが普通だ。実際、同じように王座から引きずり下ろされた10代王の燕山君(ヨンサングン)は最悪の暴君で、非道のかぎりをつくした。けれど、光海君は燕山君とはまったく違った。政治的な業績を見ていくと、むしろ名君だったのではないか、と思われるほどだ。それなのに、光海君は王宮から追放された。一体なぜなのか。光海君の波乱の人生を見てみよう。




1608年に王となる

光海君は14代王・宣祖(ソンジョ)の二男として1575年に生まれた。
1592年、朝鮮王朝が豊臣軍の攻撃を受けたときに、光海君は若くして武勲をあげている。兄の臨海君(イメグン)が捕虜になって屈辱にまみれたのとは対照的だ。
朝鮮王朝では長男が王位を継承するのが原則であったが、臨海君より光海君のほうが力量的に王にふさわしいと高く評価されて、光海君は世子(セジャ/王の正式な後継者)となった。
しかし、臨海君を支持する高官たちが巻き返しに出た。
さらに、宣祖の正室が息子を産み、後継者争いが激しくなった(臨海海も光海君も宣祖の側室から生まれていた)。
その中でも光海君は着実に力をつけて、宣祖が1608年に世を去った後に15代王となった。
王位に就いてから光海君の本当の苦悩が始まった。王位は安泰とはいえず、光海君は兄弟たちとの激しい権力闘争に巻き込まれた。
その過程で、光海君派は臨海君を死罪にして、正室から生まれた異母弟の永昌大君(ヨンチャンデグン)を殺害した。この骨肉の争いが大きな恨みを買う結果となった。




ただ、王政の最高権力者として見ると、光海君には優れた指導力があった。豊臣軍との戦いで荒廃した国土の復興に尽くし、王宮を再建した。
さらに、国防を強化し、異民族との外交でも成果をあげた。内政面では、納税制度を改善して庶民の税負担を軽減させた。
政治的な業績だけなら、立派な名君だ。しかし、光海君が王座を安泰にするために起こした骨肉の争いが結局は命取りになった。
強い恨みを持つ王族によって1623年にクーデターが起こった。
油断していた光海君は、クーデター軍の動きを察知できず、用意周到の彼らによって排斥されてしまった。
光海君は流罪となり、最終的には都から最も遠い済州島(チェジュド)に流された。
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