タグ:歴史
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明宗(ミョンジョン)は母の文定(ムンジョン)王后の悪政に苦しめられた
1545年、12代王・仁宗(インジョン)が亡くなり、異母弟の明宗(ミョンジョン)が即位した。彼の母は、中宗(チュンジョン)の三番目の正室だった文定(ムンジョン)王后である。彼女が行なった悪政は息子の明…詳細を見る -
王の座を奪った世祖(セジョ)はどんな人生を歩んだのか
王になることに大変執着していた首陽大君(スヤンデグン)は、1455年に7代王・世祖(セジョ)となったが、その過程で甥から王の座を奪う事件を起こしている。果たして、彼はどんな王だったのか。 [ca…詳細を見る -
張禧嬪(チャン・ヒビン)の息子の景宗(キョンジョン)は最高の人格者!
1720年6月8日に19代王の粛宗(スクチョン)が亡くなった。このとき、粛宗と張禧嬪(チャン・ヒビン)との間に1688年に生まれた王子が世子(セジャ/国王の正式な後継者)になっていた。彼が、20代王・…詳細を見る -
燕山君(ヨンサングン)の母は死罪になった/朝鮮王朝廃妃(ペビ)列伝1
朝鮮王朝時代は一夫一婦制であり、国王もその制度をしっかり守っていた。つまり、在位中には正室が1人しかいなかった。その正室の中で、廃妃(ペビ)になった女性が何人もいる。特に、朝鮮王朝の歴史の中で一番最初…詳細を見る -
息子の文宗(ムンジョン)を案じて世を去った世宗(セジョン)!
1418年に王位に就いた4代王・世宗(セジョン)は、民族独自の文字である訓民正音(フンミンジョンウム/後のハングル)を完成させた名君だ。彼は32年もの長い間、朝鮮王朝の王として手腕を振るった。 …詳細を見る -
『七日の王妃』で対立!燕山君(ヨンサングン)と晋城大君(チンソンデグン)
『七日の王妃』では燕山君(ヨンサングン)と晋城大君(チンソンデグン/後の中宗〔チュンジョン〕)が異母兄弟として対立する。その間で苦悩するのが端敬(タンギョン)王后だ。この3人の関係は? …詳細を見る -
イ・ヨン(孝明世子)が長生きなら朝鮮王朝の歴史は変わっていたか
23代王・純祖(スンジョ)の長男として1809年に生まれたイ・ヨンこと孝明世子(ヒョミョンセジャ)。とても優秀な世子だった。しかし、王にならないままに21歳の若さで亡くなっている。もし彼が長生きしてい…詳細を見る -
手段を選ばなかった貞純(チョンスン)王后!朝鮮王朝王妃側室物語13
1800年、名君として名高い22代王・正祖(チョンジョ)が亡くなり、その息子が10歳の若さで23代王・純祖(スンジョ)として即位した。幼い純祖が王位についたのは、正祖には他に息子がいなかったからだ。し…詳細を見る -
『トンイ』でおなじみの淑嬪(スクピン)・崔氏(チェシ)!朝鮮王朝王妃側室物語12
19代王・粛宗(スクチョン)は、張禧嬪(チャン・ヒビン)の他に淑嬪(スクピン)・崔氏(チェシ)〔1670年~1718年〕との間にも息子をもうけた。それが21代王・英祖(ヨンジョ)である。英祖は庶民の生…詳細を見る -
張禧嬪(チャン・ヒビン)が粛宗(スクチョン)の息子を産んで起こった騒動とは?
1688年10月27日、一介の女官から粛宗(スクチョン)の側室になっていた張禧嬪(チャン・ヒビン)が王子を出産した。それが、後の20代王・景宗(キョンジョン)である。粛宗にとっては、27歳になって初め…詳細を見る