善徳(ソンドク)女王はどんな女性だったのか(前編)

民衆のための政治

632年、徳曼は新羅の王に即位して善徳女王となった。
彼女はすぐに、民の生活を気遣う善政を行なった。
即位1年目の冬、領土の各地に使者を派遣して、一人暮らしの老人、寡婦、孤児など生活が苦しい者たちを慰問している。
翌年の633年には、春に大赦を行ない、各地の税金を1年間免除するという政策も実施した。
この他にも、毎年のように使者を各地に派遣して、恵まれない人たちを慰問しており、王宮にいながらでも民衆の生活を心配し、少しでも手助けになるような政治を実行していった。




また、善徳女王が特に力を入れたのが中国大陸を支配していた唐と良好な関係を結ぶことだった。
そのために善徳女王はしきりに使者を唐に派遣して朝貢した。
当時、新羅は朝鮮半島北部を占める高句麗(コグリョ)と西南部を占める百済(ペクチェ)と激しく領土争いを繰り広げていた。
善徳女王としては唐の支援を得ることがとても大事だと考え、あえて身を低くして唐に朝貢したのである。
もちろん、高句麗や百済と激しく対峙する戦時体制だったので、敵からの攻撃に備える準備も怠らなかった。
638年には、高句麗が新羅の北側の領土を攻めてきて、民衆たちが驚いて山の中に逃げ込むという出来事があった。
善徳女王は、民衆に落ちつくように呼びかけ、すぐに大軍を北方に派遣して高句麗の兵と戦い、これに勝利した。
(後編に続く)

善徳(ソンドク)女王はどんな女性だったのか(後編)

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